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アメリカ、NC州の州都ラレーの日本語教会の牧師をしているマスタージッコ。昔取った杵柄、喫茶店のマスターの時の愛称は今も不滅!
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随分前のことですが、家内の祈りのリストに旧約聖書に出てくる神の御名を印刷して手渡したことがあります。今でも、祈りの時に神様の御性質が良く理解できるこれらの具体的な御名によって祈っています。幾つか代表的な御名を紹介しますが、これが全てではありません。しかし、これを知ることによって少しでも身近な主の存在を体験してほしいと願っています。

是非、これらの御名を用いて祈る事を習慣としてください。祝福をお祈りします。

 

①ヤーウェ・ツィドケヌー『主は私たちの正義』(エレミヤ23:6
私たちは、自分の行ないを根拠にして神の前に出ることはできません。しかし、御子であられる神イエス・キリストが私たちの義となってくださいました。これが信仰によって義と認められることの基盤であり、福音の中心的教理にほかなりません。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21

 

ヤーウェ・シャローム『主は平安』(士師6:24
「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1
イエス・キリストは、この世が与えることのできない平安を私たちに与えてくださいます。

 

ヤーウェ・シャンマー『そこにおられる主』(エゼキエル48:35
イエス・キリストは、ご自身を信じる者の中に聖霊を与え、この御霊をとおして、いつも私たちとともにいてくださいます。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます・・・。」(マタイ28:20

 

ヤーウェ・メカディシュケム『あなたがたを聖別される主』(レビ20:8
イエス・キリストは内住の御霊の働きにより、私たちにキリストに似た聖い御霊に満たされた生涯を送らせてくださいます。
「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(Ⅰコリント1:30

 

ヤーウェ・ローフェカー『あなたを癒す主』(出エジプト15:26
イエス・キリストは、罪からの救い主であるとともに、心と体の癒し主でもあられます。
「彼が私たちのわずらいを身に引受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17

 

ヤーウェ・イルエ『備えてくださる主』(創世記22:14
『備える』ということばには『見る』という意味が含まれています。天の父なる神は私たちの状態をすべてご存じであり、必要なものを備えてくださる御方です。
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」 (ピリピ4:19


ヤーウェ・ロイー『主は私の羊飼い』(詩篇23:1
イエス・キリストは私たちの牧者であり、この御方に従っていくなら、私たちは安全に導かれます。

 

ヤーウェ・ニシ『主は私の旗』(出エジプト17:15
私たちは霊の戦いの戦場に置かれており、戦いの相手は神と人との敵サタンと、その配下にある諸々の悪霊です。しかし、キリストは十字架の死と復活によって、すでに悪魔に打ち勝ちました。私たちは、イエス・キリストという勝利の旗を高くかかげて敵に立ち向かうことができます。

 

ヤーウェ・ツェバーオース『万軍の主』(Ⅰサムエル17:45
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権 力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:2021
イエス・キリストこそ、全世界の真の王、支配者。そして、神はこの御方をかしらとして教会キリストのからだにお与えになりました。

 

私たちが日本での喫茶店の名前は「シャローム」でしたが、このことばは今でもイスラエルでは日常のあいさつのことばとして使われており、私たちが「おはよう」や「こんにちは」と言うのと同じように使われています。しかし、この言葉は、「あなたに神様の平安がありますように。」という意味なのです。

 

とても響きの良い大好きな言葉のひとつです。

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以下の記事はリビング・ライフに掲載されていた「神の期待」という記事です。

世の中の方法と神の方法にはとても大きな違いがあります。
世の中は、他人より一歩先を行くよう教えます。

「自分の事をまず優先し、何でも自分でやり遂げなければならない。失敗しないよう注意し、頭をよく働かせ、状況によって巧みに対処し、手に入れられるときにしっかり掴まなければならない」と言います。

 

しかし神は、

「互いをかえりみて、誰かが倒れたときには起こしてやりなさい。自分のことは後回しにして神を信頼し、必要なもの以上のものを持たないようにしなさい」と言われます。

 

信仰を持って世の中に積極的に飛び込んだらどうなるでしょうか。

昼休みに上司の悪口を言うような会話には加わりません。

顧客を逃してしまっても他人を非難 せず自分が責任を取ります。

「生き残るためには仕方がありません。当然のことでしょう」と言うことはできますが、それは言い訳に過ぎません。

 

神の望まれる 生き方をしているあなたを、神は顧みられないでしょうか。

倒れた人を助けたあなたを、神が助けてくださらないでしょうか。

 

 私たちは失敗してめちゃくちゃになって初めて「神様!少しだけ助けてくださいませんか」と祈ります。しかし、神は最後の砦としてだけ存在されるのではありません。

 信仰によって生きてください。そうすれば成功します。

神はご自分の子どもたちを顧みられる方なのですから。     

スティーブ・ケイス著  「現代人のための神の臨在練習 」より リビング・ライフ20084月号から

 

アメリカの奴隷解放をした大統領として知られているアブラハム・リンカーンは、開拓者の子で、貧しくて学校にも行けませんでした。その後、苦学して弁護士の資格を取り、やがて大統領になりましたが、彼を支えたのは、母の遺品である聖書でした。彼の母は、「あなたがどんな偉い人になるより、聖書に従う人になってほしい」と言ったそうです。

彼は親の期待したとおりに神の期待に人生を委ねました。

あなたも神に期待されている人です。

主なる神に信頼し、委ねる信仰によって、聖書のみことばに生きることを通して祝福された人生を勝ち取ってください。

信仰は具体的な、生活の中で生きたものとなります。

主が共に歩んでくださいます。

主が願われる事は委ねる事です。そして、そのことは神の期待に添う生き方となるのです。

人は生きる為に、励ましを必要としています。

それは、「頑張れ」という励ましではなく、「寄り添う」励ましです。

 

倒れそうになった時に、支えてくれる励ましです。

人という字は、もともと人が支えあって生きていくものであるからと聞いたことがあります。

イギリスから発信され、世界的な大ヒット曲になった「You Raise Me Up」という曲がありますが、この曲の歌詞に共感する人たちが世界中にいるということは、このような励まし手が必要とされているということでしょう。

 

永遠に変わらず、私を愛してくれ続ける励まし手を得ていることはなんと幸いでしょう。

 

パウロはその生涯を、教会の励まし手として捧げた人です。

コロサイ人への手紙22節で、パウロはこのように書き送っています。

「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」

パウロの祈りは、自分の生き様が、他者の励ましとなることでした。

他者の最善を心から願い、生かされていくことは、キリストの体なる教会の特徴です。神を愛し、自分を愛するように、人を愛する結びつきの中で、私たちをキリストの励まし手なる使節として神は送り出されているのです。

 

あなたは、今日、誰かの励まし手となりましたか?

共に笑い、共に泣き、共に喜ぶ、誰かの良きサマリヤ人であってください。

祝福をお祈りします。

 

You Raise Me Up

 

When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit awhile with me

 

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up
  To more than I can be

 

心が落ち込んで 魂がなえているとき
重荷がたくさんあり こころ悩むとき
私は ただ ここで 静かに待ち望みます
あなたが来て 私の傍にいてくれることを
あなたの励ましで どんな山をも越えられた


あなたの励ましで 荒れた海を歩く
あなたに支えられて 強くなれる
あなたの励ましで もっと強くなれたから

 

キリストに自分の人生を捧げることは栄光に満ちたことです。
それで私たちは『主よ、あなたの栄光のために献身します』と言います。

主にすべてをささげることを、1000ドル紙幣をテーブルの上に置いて『主よ、人生のすべてをささげます。お受けください』というようなものだと考るのです。
しかし、私たちに与えられている現実は違います。
神は私たちを銀行に行かせ、その1000ドル紙幣をすべて25セント硬貨に換えるようにと言われます。
そして私たちは生活する中で、ある時は25セント、またある時は50セントをささげるのです。

近所の子どもに向かって「あっちへ行け」とは言わないで、その子の言葉に耳を傾けてください。
老人ホームを訪れて手の震える老人に一杯の水を飲ませてあげてください。

キリストに人生を捧げるということは、大げさなことではありません。
それは、一度に1000ドル捧げるよりもその時々に25セントの愛を差し出すような、小さな行動のひとつひとつからなるのです。
時には栄光の献身よりも、長い年月をかけて少しずつクリスチャンとしての人生を生きていくことの方がはるかに難しいものです。

主に「どうすれば人生を価値あるものにできるか教えてください」と祈ってください。

大きなことを決定する鍵は、私たちが生活の中で行う小さなことなのです。

フレッド・クラドック 祈りの学校より

今日も小さな良い事のひとつひとつに心がけて生きましょう。
そのひとつは、隣人の為に、まず祝福を祈るということです。
笑顔を向けることもそうです。

民数記を学ぶと、つぶやきの罪と同時に神を試みる罪を見ることができます。どちらも大きな罪ですし、どちらも不信仰の現れです。しかし、聖書の中に主を試しても良いと、あるいは、それを許された記事もあります。後者はある使命を主から受けて召しを受けたとき、それが確かに主からのものである事を確信する為、主が許されるときです。たとえば、ギデオンがそうでした。

また、マラキの3章には不信仰に歩んできたイスラエルの民に向かって、神様から試してみよと言っておられます。

一部掲載します。

[新改訳]  マラキ書                 

3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。

3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

3:3 この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、

3:4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。

3:5 「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。・・万軍の主は仰せられる。・・

3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。

3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。

3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。

3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・

3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

 

すばらしい回復の約束です。

 

ところが神がどのような方かを知っていながら、それを試したりする不信仰の誘惑に対して私たちは案外無防備です。このことの防備はみことばと祈りによります。信仰は神を信頼するみことばに根ざした祈りによって強められます。

今日のみことばで David Wilkerson師のデボーションを読みましたが、このことを書いておられましたので掲載しておきます。

 

神様を試みるとは

イエス様が神殿の屋根に立たれた時、サタンはこうささやきました、「さあ、ここから飛び降りてしまえ。もしお前が本当に神の子なら、神が救って下さるだろう」と。

「(悪魔は)言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。』」(マタイによる福音書46

サタンのずる賢さが分かりますか。サタンは、聖書にある一つの約束を取り上げ、イエス様がそれに命を懸けるよう、図ったのです。サタンは、「神がお前と共に いると言っているが、その証拠を見せてみろ。お前の父は、すでにわたしがお前を苦しめることを許された。そのどこに神の臨在があるというのか。今ここから 飛び降りることで、神がお前と共にいることを証明出来る。もし神がお前と共にいるのなら、きっと無事に着地出来る様、備えてくれるはずだ。そうすれば、お 前の確信も確かにされる。もしそうでないなら、自分は独りなのかと悩み込むより、死んでしまった方がましだ。神が共にいることを証明するには、奇跡が必要 だ」と言いました。

イエス様は、これにどうやって答えられたでしょうか。イエス様は、こう言われました、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」(47)ここで言う「神を試す」とは、イエス様は何を意味されたのでしょうか。

古 代のイスラエルに、その例を見ることが出来ます。10回に亘り、主はイスラエルの民に、御自身の正しさを証明されました。神様の民は、主が彼らと共におられることを、目に見える形で証明してもらったのです。しかし毎回、民は同じ質問を繰り返しました、「神様は私達と共にいて下さるのだろうか」と。神様はこれを「神を試みること」とされます。イエス様もまた、この「神を試みる」という同じ表現を、サタンへの返答に用いられました。これはどういうことでしょう か。それは、神様の臨在を疑うことが、重大な罪であるということを、私達に示しています。私達は、神様が共におられるか、疑うべきではないのです。

イ スラエルにされたのと同じ様に、神様は私達にも、すでに証拠を与えて下さいました。まず神様の御言葉が、いかに神様が私達の近くにいて下さるか、何度も約束して下さっています。次に私達それぞれの人生で、いかに神様が何度も私達を救い出されたか、証しすることが出来ます。三つ目に、私達には、何世紀にも亘り神様の臨在を記している、聖書が与えられています。

聖書は明確です。私達は目に見えるものではなく、信仰によって、神様と歩むべきです。そうでなければ私達も、不信仰なイスラエルと同じ結果を招いてしまいます。

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プロフィール
HN:
マスタージッコ
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1955/10/13
職業:
牧師
趣味:
旅行、クラシック音楽鑑賞、将棋
自己紹介:
ノースカロライナ州ラーレーの日本語教会の牧師をしてます。最愛の妻と娘夫婦がいます。
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