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アメリカ、NC州の州都ラレーの日本語教会の牧師をしているマスタージッコ。昔取った杵柄、喫茶店のマスターの時の愛称は今も不滅!
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GoldenとLakewoodの街のはずれの山側に娘夫婦のアパートがあるが、彼の職場までは歩いて行ける距離で、毎日徒歩通勤している。コロラドに来て驚いたことのひとつに、バイカーの多いこと。類君の職場のチームの中でも二人の女性が、毎日1時間近くかけて自転車で通勤している。
アパートの裏山は職場のNRELとも面しており、家のベランダからはNRELの建物がよく見え、山に登ると全景が見渡せる。今、新しい研究施設も建設中で、エネルギーの研究所は益々脚光を浴びている。つい先日、日本の国営エネルギー研究機関とも提携したと言う。国際色豊かで様々な国の研究員が働いている。大きな研究機関だが、日本人は一人だそうだ。今後、日本から研究者が派遣されることになるようだが、ある意味で彼の働きぶりは、日本の研究者を代表している。

クリスチャンも日本では職場で一人であることが多いが、その人はクリスチャンを代表していると言っても良いだろう。彼は主に仕えるように、一生懸命職場で仕え、教会で仕えている。娘にも、家内にも愛情いっぱい仕えてくれる。神にあって義理の息子を得たことは、変えがたい祝福である。
続けて主の祝福を祈っていこう。それが御心であるから・・・。

ところで、こんな話を読んだことがあります。

サイラスはパリで機械の販売をてがけている商人だが、聖書をいつもポケットに入れているほど神のことばを愛していた。


このために人々からの信用も厚く、従業員を多く使って商売は繁盛していた。

ある週末、仕事が終わったときサイラス社長は従業員を集めて言った。

「ここに聖書と銀貨を用意した。諸君が明日こころ安らかに過ごすために、どちらか好きなほうをあげよう」

従業員は社長の前なので決めかねていたが、勇気をだした一人が口を切った。

「社長の愛読書の聖書もひじょうにありがたいのですが、いまはお金が何よりも必要なので、銀貨をいただきます」

「けっこう。お金はひじょうに大切で役に立つものだ。必要なものだけに使ってくれ」といって十五フランを与えた。

それからは次から次と彼らは銀貨を選んでよろこんで帰っていった。最後には最近入ったばかりで、仕事を覚えようと一生懸命になって働いていた十五歳のハンネがいた。

「ぼくには聖書をください。毎朝、社長が読んでくださっている聖書のことばを、これで病床にいる母に読んで聞かせることができます。神さまのことばを聞いてどんなに母が喜ぶでしょう」

社長はたいへん喜んでハンネに真新しい聖書を渡した。彼は尊敬する社長が愛用しているものと同じ聖書が与えられて感動し、大急ぎで母のもとへ帰った。母に聖書をいただいたいきさつを話して聞かせながら、そっと表紙をめくった。

すると、キラッと光るものがはさんであった。なんと五十フランの金貨だった。

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイの福音書18章3節)

少年の得たものは、誰が選んだものよりも価値があった。

「人はパンだけで生きるのではない」と言われたイエス様のことばが響きます。いのちのパンを選べば、必要は神様が備えてくださるのですね。このような経営者のいる職場は何と幸いでしょうか。何故なら主が経営者なのですから・・・・。
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リビングライフのデボーションが、今週からルツ記に入り、好きな箇所でもあって、家内の歯の治療の待ち時間に一気に読んでしまった。

ルツがモアブの出身で異邦人であったが、ナオミの信じる真の神様を信じ、ナオミに仕えて行く中で、そこにボアズを通して主の恵みが溢れたこと。 この家系からダビデが誕生し、そこから救い主であるイエス様の誕生に至る系図に、神の恵みの計画が、人知を超えて成就していく事を見ることに神の真実を思い。ただただ感謝する。

信仰に生きる者に約束された、主の祝福は何と大きなことだろう。

 

先日、神への信頼の詩篇である、詩篇91篇から宣教する機会が何度か与えられたが、ルツ記のボアズのルツに対する言葉の中にも、はっきり神が避所であり、神に信頼するものを、主は回復させ、恵を施される方であることを知る。

 

そんな中でルツに出会ったボアズのことばに、感動を覚える。
いつも、このような祈りをもって、神の民を祝福したい。

ルツ記21112

 

 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記21112節)

 

ルツ記は神の逆転のドラマであり、神への信頼と従順の大切さを改めて教えられた。 感謝!
Mothers-Day-Bouquet.jpg


明後日は母の日。

1908年にバージニア州でアンナ・ジャービスという女性が、亡き母を追悼するために、1908510日にフィラデルフィアの教会で赤いカーネーションを配った日と同じ101年目の同じ日が母の日。

この風習は1910年、ウェストヴァージニア州の知事が5月第二日曜日を母の日にすると宣言し、やがてアメリカ全土に広 まっていき、1914年には5月の第2日曜日が「母の日」Rose1.jpgRose4.jpgと制定されました。ちなみに、日本で初めて母の日のイベントが行われたのは明治末期頃。1915 年(大正4年)には教会でお祝いの行事が催されるようになり、徐々に民間に広まっていったと伝えられている。

 

母が召された日がマウントハーモン修養会の開催中で、急遽カリフォルニアからラレーに引き返し、翌日日本に発った日のことが思い出される。

 

姉は、『「わたしが帰って来るから」と母を励ました」』といっていたが、病魔には勝てなかった内感染による肺炎が原因だった。体力が落ちている患者が肺炎を併発して亡くなるケースは多いと言う

今は豚インフルエンザ、家内が透析患者であるため、インフルエンザにはとても気を使う。体力をつけさせなくてはと、たんぱく質を取rose5.jpgり、出きるだけ食欲のあるものを食べさせようとしている。

そういえば、姉は、母が家事を出来なくなってから、特に母の為に、いつも朝早くから食事を作り、精一杯母に仕えていた。

私は、葬儀の、母の遺骨を分けてもらい、庭に記念の小さな歌壇を造った。


母と姉には本感謝している。親不孝な放蕩息子、弟だったから。

 

今日は、そんな母と姉への感謝の気持ちで、花壇を花で飾ろうと思う。

『多くの者は言っています。

「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」

主よ。どうか、あなたの御顔の光を 私たちの上に照らしてください。』(詩篇46)

「あなたが手を伸ばして主を捜そうとするとき、主は既にあなたに手を伸ばしておられます。神は外出中であったり、昼寝をしておられる方ではありません。神 は、遥かかなたの宇宙の片隅に隠れ、私たちを放ったらかしにしたまま、無関心でいる方ではありません。神は、あなたが願っている以上に、さらに深くあなた との親密な関係を願っておられます。このことを信じてください。」

上記のことばは、アメリカ人のクリスチャン女性、ジョニー・エレクソン・タダさんのことばです。彼女は海で浅瀬に飛び込んで頸椎を折り、肢体まひとなってもう37年が過ぎました。現在アーティストとして、ゴスペルシンガーとして、また伝道者としても世界各国で活躍中ですが、車いすから聞こえる歌声、口で絵筆をくわえて描かれる絵は、神様への感謝であふれています。

神は困難に希望を与え、生きる力をくださり、イエス様にあるいのちによって、新しく生まれた人として用いられます。その秘訣は、感謝する心、讃美する心だと言います。しかし、これらの心は苦しみの中から、神を見上げ、約束のことばを信頼して歩むものだけが受け取れる恵みなのです。

詩篇の作者は言っています。

[新改訳]  詩篇 91                     

91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。

91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。

91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。

91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

この詩篇はダビデの作、あるいはモーセの作とも言われています。

二人とも聖書を代表する信仰の人で、主をおのれの隠れ場とした人たちです。

ここで使われているヘブライ語の「隠れ場」は、 「セテル」という言葉です。それは隠れること、山の中に潜むこと、包み隠すこと、保護すること、防御すること、プライベートな秘密の場所などを意味します。これは、隠す、隠れている、秘密にしておく、秘密を守る、といった動詞からきています。

  聖書の多くの箇所で、この言葉が用いられていますが、いつも「隠れ場」と訳されているわけではありません。「御翼の陰に、身を避け」(詩篇614節)、「のがれて来る者の隠れ家」(イザヤ164節)などがあります。

「隠れ場」は昼夜問わず、敵の攻撃から逃れる場所であると91篇は語っています。5節、6節の「恐怖」「矢」「疫病」「滅び」は、悪魔のことであると考えられ、91篇には霊的領域の敵も含んでいると思われます。隠れ場がある私たちは、何も恐れる必要がないのです。

 

詩篇の著者は、私たちが隠れ場の「下に(陰に)」とどまると言いました。ところがイエスは、私たちが主の「中に(内に)」とどまると言われました。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネの福音書1420節 新共同訳)。   

隠れ場とはどのくらい安全な場所なのでしょうか。サタンは私たちをだまそうとして、そのような安全な場所などないとうそをつきます。そして、狙いを定めて恐怖や不信の矢を投げつけてきます。

困難な時代に、 私たちは悪魔の欺きに反撃し、その代わり隠れた避難所で休息を取ることを選択する必要があります。主ご自身の中にこそ、私たちが住む場所があります。単に時おり訪問するだけの場所ではありません。そこに住むには、私たちがその隠れ場を常に意識していなければいけません。私たちは主と共に「天の王座」(エペソ 26節 新共同訳)に定住しています。私たちはみことばを読めば読むほど、神を礼拝し天上のことを黙想します。そして秘かに住む隠れ場に気付けば気付くほど、私たちの人生は、モーセ、ダビデ、エリヤ、パウロ、そして主イエスの人生の内に見られるすべての素晴らしい特性を現していきます。 

私たちは、主から招待されています。 主の前に静まるとき、この特別な場所の存在に気付かされます。

「静ま1166255744.jpgって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇461節 口語訳)

主はモーセに「わたしのところに上り」(出エジ2412節)と言われました。

私たちは主の御翼にかくまわれ、嵐の中にあっても平安を持つことが出来るのです。

ハリケーンで大荒れの海でも、海底深いところは、静かでまるで荒しなどないかのように、主に御手にあるとき

どんな状況にあっても平安を持つことが出来るのです。

さあ、主の前に静まり、祈りましょう。 私たちの人生の嵐が過ぎ去るようにと。

 

「祈りは私たちの信仰とたましいを神に注ぐことです。祈るとき、ただ神だけがそのたましいの中におられ、神お一人だけで満足しなければなりません。また、正しい祈りは、神だけを私たちの望み、避け、そのすべてとすることです。真実なる祈りは、私たちを守り、助けることのできる実際的で、価値ある対象が、ただ神の中にだけあるということを表すことです。」 ジョン・バニヤン 著「 天路歴程」より

                            Doogwood0.jpg          今年は412がイースターですが、45日の「棕櫚の日曜日(Palm Sunday)」から受難週に入ります。
NC州
州の木が「はなみずき(Doogwood)」で、今、この「はなみずき」が開き始めています。今年は丁度イースターの頃が一番見頃になるのではないかと思います。

この「はなみ
き」はイースターツリーとも言われます。毎年イースターの頃に花をつけ、4枚の白い花弁が大きく開き十字架のように見えます。また花弁の先端が釘の痕のよう になっていて、エス様が十字架上で釘打たれた様を想像させます。

Dogwood.jpg「棕櫚の日曜日」のことでこのような言い伝えがあります。

メシアの来臨について、昔のラビたちはこのように預言しました。

人々が心の備えが出来ていたなら、メシアは「光る雲」に乗って、来られる。

人々が心の備えが出来ていなかったら、メシアは「ロバの子」に乗って、来られる。

「ロバの子」は、心を冷たく閉ざしているわたしたちへの、主の哀れみのしるしです。

 

ところで、先週のChapelHillの集会で山内先生が紹介してくださったのですが、バッハのマタイ受難曲の中の第39曲にとても美しいアリアがあります。

イエスを知らないと三度も否んでしまったペテロ。

「鶏が鳴く前に前に、三度わたしを知らないというであろう」という師の予告を思い出し、外に出て 激しく泣きました。どんなに嗚咽し、どんなに涙を流しても、もはやイエスを十字架につけないようにすることは、ペテロには出来ません。取り返しのつかない過ちを悔い、悲嘆の涙を流すペテロの心情をアルト歌手が切々と歌い上げます。

 

憐れんで下さい、神よ、

私の涙のゆえに。

見て下さい、心も目もあなたの前で

激しく泣いているのを。

憐れんで下さい、

憐れんで下さい。

Youtubeで聞くことが出来ます。

Bach - Julia Hamari - Matthäus Passion - Erbarme dich


訳詞については、ここをクリックしてください。「マタイ難曲」

 

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プロフィール
HN:
マスタージッコ
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1955/10/13
職業:
牧師
趣味:
旅行、クラシック音楽鑑賞、将棋
自己紹介:
ノースカロライナ州ラーレーの日本語教会の牧師をしてます。最愛の妻と娘夫婦がいます。
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